浮世絵で見る江戸・神田界隈

第2回 水道橋 駿河臺〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:神田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

鯉のぼりはセレブの象徴?

ところで、この絵を見てちょっと気がついたことがあるんですけど…。

何だよ。富士山が見えるとか、つまらない事は言うなよ。江戸時代なら富士山が見えるのは当たり前だからね。

そうじゃなくて、鯉のぼりが手前の家にしかないような気がする。

ほう。なかなかいいところに気がついたね。その通り。前回駿河台は武家屋敷の集まりだって言っただろ。武家ではあまり鯉のぼりを揚げる習慣がなかったんだ。鯉のぼりを揚げたのは主に金持ちの商家だ。

へぇ〜。じゃあ、鯉のぼりって、どんな家でも揚げていたわけじゃないんだ。

もともと端午の節句のルーツは中国の戦国時代。2300年も前の話だ。悲運の政治家、屈原の命日である5月5日を供養するお祭りが日本に伝わったものなんだ。

それじゃあ、今と全然意味が違うじゃない。

全く関係ないわけじゃないよ。屈原は汨羅江(べきらこう)という川に身を投げて死ぬんだけど、その遺体を魚が食べないようにと、民衆が魚のえさ代わりに川に粽(ちまき)を投げたという言い伝えがあって、これが端午の節句に粽を食べるという習慣になった。

そうなんだ〜。ウチの田舎では食べないと思うけど。あっ、柏餅なら食べるけど。

キミの田舎であれ、どこであれ、粽を食べる習慣がなくなったのは確かだな。柏餅は、柏の葉というのが、新芽が育つまで古い葉が落ちないことから、江戸中期に「子孫繁栄」という縁起をかついだのが始まりだ。

意味はどうあれ、年に一度、美味しいお菓子が食べられるっていうのはいい習慣よね。

何が意味はどうあれだよ。意味を解説するのがこの連載の役目だろ。でまぁ、5月5日はもともと屈原の命日だったものが、いつの間にか日本では病気・厄災を除けるための宮中行事になっていった。これが端午の節句の始まりだ。

最初から男の子のお祭りっていうわけじゃなかったのね。

端午っていうのは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味なんだ。だから本来5月5日に限った言い方ではない。5日になったのは、“午”の字と数字の5の読みが一緒だからだ。で、5月の連休頃から急に汗ばんでくるだろ。季節の変わり目っていうことで、昔から亡くなる人が多かったわけ。だから5月は“毒月”なんて言われて厄災の多い月だという認識があった。

そういえば、今でも“五月病”っていうのがあるわよね。

季節の変わり目は自律神経が乱れやすいからね。そういう意味では“五月病”みたいな適応障害は昔からあったかもしれないな。そんな“毒月”を乗り切るには薬が必要だというわけで、薬草を摘んだり、香りの強い菖蒲を飾って厄除けをする習慣が始まった。

あっ、菖蒲湯っていうのは田舎のおばあちゃん家(ち)でやってたかも。

菖蒲酒なんてのも昔はあったんだ。で、その“菖蒲”が“尚武”に通じるっていうわけで、江戸時代に入ると、武家の男子の立身出世や武運長久を祈る行事になっていったわけ。

ショウブつながりってことか。最初の意味からはかなり遠くなっているのね。

それで、虫干しを兼ねて先祖伝来の鎧兜を奥座敷に飾ったり、戦場で使う旗指物や鍾馗様の幟なんかを立てるようになった。

ああ、だから浮世絵でも、武家屋敷の方にはそういう幟が出ているのね。

町人の節句はそういう武家の習慣を真似たわけだけど、本物の鎧兜は手に入らないから模造品の武具を飾ったり、派手な吹き流しを揚げるようになった。そんな中で“鯉の滝登り”というように立身出世のシンボルである鯉もモチーフになったというわけ。

それじゃあ、今の鯉のぼりのスタイルって、結構最近の話なの?

緋鯉が出てくるのは明治以降で、子鯉は昭和以降。童謡で比べるなら「甍の波と雲の波〜」っていう歌詞は大正時代。「ちいさい ひごい」っていう歌詞が出てくるは昭和初期。
経済的に豊かになっていく過程で、だんだん豪華になっていったのね。

まぁ、それも昭和30〜40年代ぐらいがピークじゃないかな。最近は住宅事情が悪いから都心ではめっきり見かけなくなったね。江戸時代に鯉のぼりが生まれた背景には経済力で武士を凌ぎ始めた町人達の台頭がある。鯉のぼりというのは或る意味階級制度が形骸化したことへの象徴でもあったんだ。
<続きは次回。11月中旬に掲載します>

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